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黒田家

黒田官兵衛 くろだ かんべえ (1546~1604) 黒田家
 職隆の嫡男。諱は孝高、如水の号でも知られる。豊臣秀吉の軍師で、竹中半兵衛と共に「二兵衛」「両兵衛」と称された。はじめは播磨御着城主・小寺政職に仕えたが、織田信長が中央で勢力を拡大すると、いち早く恭順して羽柴(豊臣)秀吉の中国征伐に協力した。中国征伐の最中、荒木村重が謀反を起こすと、その説得に向かうが捕らえられ、1年後に助け出されるものの足に障害が残った。本能寺の変が起こると天下を取る機会が到来したと秀吉に進言するが、秀吉はその指示に従いながらも孝高の切れすぎる頭脳を警戒したといわれる。その後も四国征伐、九州征伐、小田原征伐と秀吉の天下統一に多大な貢献をして豊前中津12万石を得た。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、九州に残って西軍についた諸城を次々と落城させた。一説には九州を制圧したのち、天下を狙っていたともいわれるが、関ヶ原決戦がわずか1日で終わってしまったため、計画は頓挫した。関ヶ原が1日で終わったことに嫡男・長政が大きく関わったことを知ると、激怒したという逸話が残る。


黒田長政 くろだ ながまさ (1568~1623) 黒田家
 官兵衛(孝高)の嫡男。武断派七将のひとり。幼少のころ、父・孝高が織田信長に恭順すると、人質として羽柴(豊臣)秀吉に預けられた。荒木村重が謀反を起こし、説得に向かった孝高が捕らえられると、官兵衛が裏切ったと思い込んだ信長に処刑されそうになるが、竹中半兵衛(重治)の機転で一命をとりとめた。22歳で家督を譲られたのちは、朝鮮出兵などで活躍した。秀吉死後は徳川家康に接近。小山評定では福島正則を説得して豊臣恩顧の武将たちを東軍につけることに貢献した。関ヶ原本戦では小早川秀秋を調略し、戦いでも石田三成と戦って三成の軍師・島左近を討ち取るなど東軍の勝利に大きく貢献する。その功で戦後は筑前福岡に52万石を得た。関ヶ原での活躍で、家康が手を取って感謝してくれたことを父・官兵衛に伝えると、「なぜ、そのとき家康を殺さなかったのか」と問われ、父の野望の大きさに口を閉ざしたという逸話が残る。


黒田重隆 くろだ しげたか (1508~1564) 黒田家
 職隆の父。官兵衛(孝高)の祖父。備前福岡に在住していたが、備前国が戦火で乱れると播磨国へ移って小寺家に仕えた。黒田家家伝の目薬「玲珠膏」を売って財をなし、黒田家発展の礎を築いた。


黒田職隆 くろだ もとたか (1524~1585) 黒田家
 官兵衛(孝高)の父。播磨御着城主・小寺政職に仕えた。政職に敵対していた香山重道を討ったことで信頼を得て家老にまで出世し、姫路城の城代となる。官兵衛に家督を譲ったのち、荒木村重が謀反を起こし、説得に向かった官兵衛が捕らえられると、一時的に当主に復帰して家臣団を統率し、織田家との信頼を繋ぎとめた。羽柴(豊臣)秀吉の信頼も厚く、姫路城留守居役をつとめたこともある。


黒田利高 くろだ としたか (1554~1596) 黒田家
 職隆の次男。官兵衛(孝高)の同母弟。通称は兵庫助。黒田二十四騎、黒田八虎の筆頭。兄・孝高と共に羽柴(豊臣)秀吉に仕え、三木城の戦い備中高松城の戦い山崎の戦い九州征伐などで活躍した。1589年、官兵衛が隠居して長政が家督を継ぐと長政の後見人となる。その後、文禄の役に参加。96年に帰国するが病を得て亡くなった。


黒田利則 くろだ としのり (1561~1612) 黒田家
 職隆の三男。官兵衛(孝高)の異母弟。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。兄・孝高と共に羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いに参加したのちは羽柴(豊臣)秀長に仕えて九州征伐に参加し、官兵衛が豊前国6郡12万石の大名になると黒田家臣となった。その後は文禄・慶長の役に参加し、関ヶ原の戦いでは中津城の守備を任され、戦後に1万2千石を拝領した。


黒田直之 くろだ なおゆき (1564~1609) 黒田家
 職隆の四男。官兵衛(孝高)の異母弟。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。兄・官兵衛と共に羽柴(豊臣)秀吉に仕えたが、のちにすぐ上の異母兄・利則と共に羽柴(豊臣)秀長に仕えた。九州征伐の際に黒田家に戻り、その後は文禄・慶長の役に参加した。関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って九州で戦い、戦後は1万2千石を得た。黒田四兄弟はみなキリシタンだが、直之はその中でも熱心で、関ヶ原の戦いで敗北した浪人となった同じキリシタンの明石全登を一時匿っている。


井上九郎右衛門 いのうえ くろうえもん (1554~1634) 黒田家
 黒田家の家老。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。諱は之房。職隆官兵衛(孝高)長政、忠之と4代にわったて仕えた。はじめは職隆の小姓として仕える。官兵衛が謀反を起こした荒木村重の説得に向かって捕らえられたときには、栗山善助(利安)母里太兵衛(友信)と協力して救出にあたった。職隆存命中は職隆に仕え、職隆の死後、官兵衛に重臣として迎えられる。関ヶ原の時は、官兵衛に従って九州で戦い、大友家臣で立花宗茂の従兄弟である吉弘統幸を討ち取る大功を挙げた。戦後は1万6千石を拝領する。晩年に黒田騒動が起こるが、黒田家が改易を免れたのを見届けたのち亡くなった。


菅正利 かん まさとし (1567~1625) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎のひとり。一族は美作国の住人だったが、正利の祖父が播磨に移り住んだため、播磨国で生まれ黒田官兵衛(孝高)に小姓として仕え始めた。新免無二(宮本武蔵の父)から新当流を、疋田景兼から新陰流を学んだ剣豪で文禄の役では虎の首を一刀のもと斬り落としたという逸話をもつ。関ヶ原の戦いでは長政に従って本戦で活躍し、小早川秀秋の寝返りを促す使者をつとめた。1621年に隠居するが、才能を惜しんだ長政に請われ福岡城二の丸の城番をつとめた。


栗山善助 くりやま ぜんすけ (1550~1631) 黒田家
 黒田家筆頭家老。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。諱は利安。若いころから黒田家に仕え、15歳で官兵衛(孝高)の側近となる。官兵衛の命令で、のちに仕官してきた母里太兵衛(友信)とは義兄弟の契りを結び、粗暴なふるまいが度々あった太兵衛を監督指導した。文武両面で孝高を助け、官兵衛が謀反を起こした荒木村重の説得に向かって捕らえられたときには太兵衛、井上九郎右衛門(之房)と共に救出にあたった。関ヶ原の時には、官兵衛と長政の正室を太兵衛と共に京都から救い出し、そのまま官兵衛に従って九州で戦った。戦後は自身に1万5千石、嫡男・利章にも3千3百石が与えられ、栗山家は1万8千3百石の大身となった。1617年に隠居。長政死後は剃髪して一葉斎卜庵と名乗った。


黒田一成 くろだ かずしげ (1571~1656) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。荒木村重の家臣・加藤重徳の次男。官兵衛(孝高)が謀反を起こした荒木村重に捕らえられ幽閉された時、父・重徳が官兵衛の世話をよくしたため、村重没落後に官兵衛に引き取られて養子となり、官兵衛の嫡男・長政の弟のように育てられた。四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵で多くの戦功を挙げ、関ヶ原の時は長政に従って本戦で戦った。戦後は1万6千石を拝領し、三奈木黒田家の祖となり大坂の陣に参戦。その後は島原の乱にも参戦し、幕府軍の総大将・松平信綱の軍議にも呼ばれた。


毛屋武久 けや たけひさ (1554~1628) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎のひとり。近江国の出身。六角家に仕えた父が織田信長との戦いで討死し、六角家が衰退すると織田家に属した。柴田勝家前田利家池田恒興佐々成政に仕え、成政が肥後国人一揆の責を負って切腹となると、黒田長政に仕えた。関ヶ原の戦いでは物見をつとめ、過大に見られていた敵軍を「敵は寡兵」と報告して味方の士気をあげ徳川家康に賞賛された。晩年には大坂の陣にも参加している。


後藤又兵衛 ごとう またべえ (1560~1615) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎、大坂城五人衆のひとり。諱は基次。後藤家は播磨・別所家に従っていたが、別所家が滅ぶと黒田家に仕えた。しかし、官兵衛(孝高)が謀反を起こした荒木村重の説得に向かい幽閉された際、黒田家臣一同が誓紙を出して団結しようとするなか、基次の伯父は、これを拒んだため、一族は追放となり、一時的に羽柴(豊臣)家臣・仙石秀久に仕えた。官兵衛救出後に帰参を許され、その後は各地を転戦して抜群の戦功を挙げる。関ヶ原の時は長政に従って本戦で戦い、石田三成の家臣で豪槍使いで知られた大橋掃部を討ち取った。戦後、1万6千石を拝領するが、長政と不仲であった細川忠興と親交をもったことで叱責され出奔する。その後、仕官が叶わず、浪人生活を送っていたが、1614年、豊臣秀頼の求めに応じて大坂城に入り大坂の陣を迎えた。夏の陣で徳川家臣・奥田忠次を討ち取るなど奮戦したが、後続の友軍との連携がうまくいかず、伊達家臣・片倉重長の軍勢に討ち取られた。


原種良 はら たねよし (1557~1639) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎のひとり。筑前の名門、原田家の一族で、もとの姓は宝珠山。父・隆信は大友家に仕えていたが、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、いち早く秀吉に恭順を示し、その父によって黒田官兵衛(孝高)のもとに人質に出され案内役をつとめた。その縁でのちに黒田家臣となり、その際、姓の読みが長いという理由で官兵衛によって原姓に改めさせられた。その後、文禄・慶長の役で活躍。関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って九州で戦った。


村田吉次 むらた よしつぐ (1565~1621) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎のひとり。若い頃から黒田官兵衛(孝高)に仕え、官兵衛が織田家に属した際、人質として羽柴秀吉のもとに送られた松寿丸(後の長政)に同行した。その後は文禄・慶長の役で活躍、関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って九州で参戦した。宝蔵院槍術の免許皆伝をもつ猛将で、槍働きで大いに活躍したが、気にくわないという理由だけで人を斬殺するなど粗暴な性格だったという。


母里太兵衛 もり たへえ (1556~1615) 黒田家
 黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎のひとり。生涯の戦で76の首級を挙げた黒田家屈指の猛将で諱は友信。官兵衛(孝高)長政に仕えた。黒田家の与力であった母里家の者が戦でことごとく討死すると、母が母里家出身であったことから名跡を継いだ。猛者であったが、粗暴であったため、それを憂いだ官兵衛の命で、栗山善助(利安)と義兄弟の契りを結び、兄である善助には逆らわないように言われたという。荒木村重の謀反の際、説得に向かった官兵衛が捕らえられると、善助らと共に救出にあたる。関ヶ原の時も善助と共に官兵衛と長政の正室を京都から脱出させる活躍をし、帰国後は官兵衛に従って九州の西軍諸将と戦った。戦後、自身に1万6千石、息子・友生にも2千石が与えられた。長政の命で、福島正則のもとへ使いに行ったとき、巨大な大盃につがれた酒を飲み干し、名槍「日本号」を呑み取った逸話が、民謡「黒田節」の歌詞になっている。

「黒田節」より
 酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士